異質なものへの適応(3)

前のポストからの続き

(1)「じっくりかつ粘り強く、物事を極めていく方法を体得できたこと」

外国語の勉強というものは、「もうこれで大丈夫」というゴール達成感がなかなか得られないような気がする。この文法現象、この語彙、このイディオムは内在化したと思っていても、次の日に腑に落ちない英語の実例に出会ったりして、自分の理解度が甘かったことが浮き彫りになることがある。

つまり、分かったと思っていても、その自信を木っ端微塵に砕くような「交通事故」に会ってしまうのだ。そのための保険など無い。極端に言えば、死ぬまで勉強するしかない。例え、英検1級に合格していようが、英語力を維持する努力を怠っていれば、恐らく英語の実力は短期間でさび付いてしまうだろう。

英語の勉強や学習など、歓喜と落胆の繰り返しゲームと思っていても良いかもしれない。外国語として完成度の高い英語レベルを一生を掛けて目指していけるような人は、全体の数パーセントかもしれない。残りの大部分の学習者は、どこかで匙を投げてしまうのではないだろうか。もちろん、英語など日々の生活に必要ないから、学習をストップしても何ら差し支えがないというのも、日本において英語学習者が気楽に語学のマスターをあきらめることのできる要因かもしれない。

一筋縄ではいかない外国語である英語の学習を粘り強く続け、上級レベルに達したときの満足感というか達成感は、かなりあると思う。個人差はあるかもしれない。もちろん、それに価値を見いだせない人には、お奨めできないけれど。

(2)「固定観念に縛られず、すべての現象を柔軟に解釈しようとする精神構造が身に付いたこと」

日本語の固定観念から英語の文法現象や構文を分析していた頃の私は、何かと英語の文法や表記法に関する特有の「癖」を変な感じだと批判していたような気がする。特に、英語学習を初めて間もない頃は、「黙字」(発音しない文字)が、単語の中にあると知って、仰天していたものだ。例えば、’night’, ‘daughter’, ‘debut’ などの単語は、少なくとも標準英語では、黙字が含まれている。ちなみに、イギリス北部の方言(リバプール辺り)では、’night’, ‘daughter’ の ‘gh’ を発音する。

大学に入学し、英検2級レベルになっても、すんなり理解できない文法現象は、いろいろあったと記憶している。「私の住む家は、パン屋の向かい側です。」を英語に訳したとき、’The house I live is across the bakery.’ とやって、訂正されたことがある。’The house I live in is across the bakery.’ と前置詞がいるのだ。最初は、これがどうしても理解できなかった。恐らく、私の脳みその中で、日本語のDNAが拒絶反応を示していたのだろう。

特にリアルタイムで英語をアウトプットしなくてはならないスピーキングでは、日常生活で頻繁に目にするものでも、文法的に間違ってコメントしてしまうことが、多々あった。’I bought trouser at the local Sunday market last week.’ ‘ズボンの場合、’a pair of trousers’ と表現するのに慣れるのに、かなり時間が掛かった。とっさに言おうとすると、じっくり文字から理解する場合と違って、脳にかかる負担が全然違うような気がする。

前述した例やその他のおびただしい「障壁」を徐々にクリアーし、留学中に英語がある程度読み書きおよび話すことができるようになった頃には、どんな語法や文法現象や構文に出会っても、「こういう現象もあるのだなー」と冷静に受け止めることができるようになっていた。

これには、イギリスの大学で受けた教育の影響もあったのかもしれない。イギリスの大学では、現象や既成の理論や説を直視し、それを全面的に受け止めた上で、徹底的に考え抜いて、エッセイを書く訓練を受けた。大学の前期試験や後期試験は、1科目に付き、3から4のトピックについて、3時間続けてエッセイをボールペンまたは万年筆で書き続けるという方式であった。1日2科目ある日は、試験で終日つぶれたので、結構疲れたのを覚えている。

話が逸れるが、今では、イギリスの大学で、こう言う考え方もある、ああいう考え方もある、でも自分のポジション(位置)は、ここであるといった訓練を英語でできたことに感謝している。当時は余裕など全くなく、非常につらかったが、留学で受けた講義は、今では私の目に見えない「宝物」となっている。

外国語で抽象的な思考ができるようになるのは、母国語と同じくらい時間が掛かると考えて、先ず間違いない。個人差はあるだろうが、抽象的な思考に基づき、大学の講義レベルで要求される「発言」や「エッセイ」が、ある程度満足できるレベルまでできるようになるには、通常7年から8年かかると言われている。

子どもの場合、小学校4年生辺りから抽象的な思考が可能になると言われているから、高校1年生くらいになると、日本で教育を受けて育った子どもでも、日本語で抽象的な表現を駆使して発言したり、物を書いたりする能力が、ある程度整ってくるのではないだろうか。

母国語で大学教育を終了して留学することのメリットの1つは、母国語での抽象的な思考回路ができあがっている点にあると思う。英語圏に留学して外国語への表現の乗せ方を辛抱強く学んでいけば、一筋縄ではないにしても、抽象的なことを論文とかで書けるようになる筈である。

(3)「グローバル規模で物事を捉えることができる、複眼的な思考回路ができたこと」

大学や大学院の講義におけるチュートリアル、イギリス人の知人や親友と会食しながらあれこれ率直な意見を英語でぶつけ合う中で、’You are entitled to your own opinions.’ という文化的な土壌になじんでいった感がある。私の印象では、安易に「あなたと同じ意見です」とお茶を濁した感じで答えると、話や議論が盛り上がらなくて、つまらないと考える雰囲気があったと思う。恐らく、そんな環境に長期間身を置いたせいであろう、私も相手と意見をぶつけることで、自分の意見の輪郭を浮き彫りにするのが楽しいような性格に徐々に変わっていた節がある。だから、日常生活において相手の意見や価値観が自分と異なっていても、今ではあまり驚かなくなっている。

イギリス人およびイギリス国外から留学してきた学生と友達になって楽しかったのは、グローバルな話題に富んでいたことだ。その理由の1つとしては、彼らや彼女たちの家族や親戚が、いろいろな国に出て行って、そこで仕事をしたり、定住したり、国際結婚していることも関係していたのだと思う。

学生寮のキッチンで適当に何かを作り、食事をしながら語り合い、個人のエピソードを通して、知的好奇心が満たされることもあったし、刺激を受けることも多かった。留学中は、「所変われば品変わる」を実体験する日々であったと言える。

さらに、私のイギリス人の恩師のお陰で、ある意味で素顔のイギリス人を観察する機会にも恵まれた。イギリスの場合、週末に家族や友達同士で食事を取ることが多い。私の恩師も、日曜日のランチタイムになると、彼の家族や知人たちを食事に招待していた。そこに私も招待してくれることが多かったのだ。

ここで、ちょっと脱線しよう(というか、脱線してばかりかもしれない)。

イギリスの場合、日曜日のランチの開始時間は遅い。早くて13時、遅いと14時位になる。定番は、ローストした牛肉か鶏肉、または豚か羊の肉である。これがメインディッシュで、付け合わせにポテトフライ、ボイルしたジャガイモ、ローストしたジャガイモ、人参やグリンピース、スプラウト(芽キャベツ)、葉野菜をボイルしたもの、等を用意する。これらをプレートに盛りつけ、グレービー(ブラウンソースのようなもの)をかけて食べるのだ。家庭によっては、ヨークシャープディングを出す場合もあるし、ローストビーフの場合は、薬味として「ホース・ラディッシュ」を出してくれることが多い(わさびの味に似ている)。

話が逸れたが、12時前後にゲストが到着すると、先ずは台所で作業をしながら、ワインの栓を抜き、ローストしたピーナッツをつまみにしながら、近況報告を中心とした会話がはじまるのだ。ホームパーティーを通して、イギリス人同士が、プライベートの空間で何をどのように語るのか、観察することができて、社会勉強になったし、英語の勉強にもなった。話題が日本の文化や歴史、経済や政治のことになると、私もコメントを求められることが多かったので、これもアウトプットの良い勉強になったと思う。

親しくしていたイギリス人夫婦が、ロンドンの官庁街で働いていたこともあって、当時のサッチャー首相や内閣の閣僚達に関するリアルなゴシップをイギリス人夫婦から直接聞くことができたのも、楽しかった。この夫婦、今では、南仏に家を買って、そこにリタイヤしている。数年前に南仏まで会いに行ってきたが、8LDKにプール付きの家は、快適そのものであった。周辺に家らしい家もなく、南仏の片田舎に、19世紀に立てられた農家を改造して、ご夫婦は住んでいた。フランス語も一生懸命勉強して、日常会話はマスターしていたのには、驚いた。

いろいろ書いたが、ホームパーティーで出会った様々な国籍のゲストからグローバルな規模でのエピソードを聴かされて、私はいたく感動および感心していたのを覚えている。本で読むのも面白いが、個人的なエピソードや物語に乗られて様々な体験談を聴くと強く印象に残るような気がした。

今でも強く印象に残っている人物として、南アフリカ出身の夫婦のことがある。彼らとは、犬の散歩で知り合ったのがきっかけで、お互いの家を行き来するようになった。

これについては、次の記事に譲ることにしたい。

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口蹄疫=Foot and Mouth Disease

イギリス留学中の1980年代にこの病気のことは知っていました。臨床獣医学関係の翻訳もこなしていた時期であったため、この病気の怖さは、獣医師ほどでないにしても、一般の人以上に理解していたつもりです。

この病気のやっかいなところは、病原菌の感染力が非常に強いため、「発症するまで取り敢えず見守ろう」と日和見的な対策をしていると、ウイルスがあっというまに伝染してしまうことです。ですから、牛一頭でも感染例があれば、その母集団はすべて焼却処分するしかないのです。そうしないと、感染する牛や豚がネズミ算式に増えていき、対応不可能になります。

英語表現:

口蹄疫: foot-and-mouth disease (FMDと省略されることが多い)

原因:cause of the disease

病原体: pathogen

口蹄疫ウイルス: *Picornaviridae *Aphthovirus

*Picornavirus =  直訳すると、’small RNA virus’ という意味。

*ギリシア語の aphtha– 「小水疱」という意味に由来。

農林水産省の「口蹄疫」に関するより詳しい説明は、ここをクリック

異質なものへの適応(2)

これも私の仮説だが、英語が上級レベル(英検1級、TOEIC980点、国連英検特A級)までマスターした人は、最終的に英語に対する拒絶反応を抑え続け、マスターすることに成功した人であると言える。この種の人たちは、長期間、粘り強く、異質な外国語である英語に対して、働きかけ続け、英語に対する柔軟なアプローチができた人たちであると言い換えても良いだろう。

今後10年間で、日本とアジア諸国の間で、人・物・情報の交流が飛躍的に活発化することを考えると(必然の流れだと思う)、異質な者に対するコミュニケーション能力の大切さは、強調してもし過ぎることはない。最終的には、アジアで一番経済的な力のある国の言葉が共通語になる可能性が高いと思うが(この点で中国語のポテンシャルは高いかもしれない)、初期段階での共通語は、恐らく「英語」になると私は見ている。なぜなら、アジアには欧米に留学した人が多く存在するからだ。

またも、話が脱線した。本論に戻そう。

これも私の仮説であるが、視野の狭い人間や、偏狭な心の持ち主は、恐らく英語がマスターできないかもしれない。英文法などの勉強で、難解で訳が分からなくなって、英語を物にすることをあきらめるタイプの人はこれに該当すると思う。日本語の発想で英文法がすっきりと理解できないときでも、「英語ってこんな言語なんだ」と妥協する精神的な余裕も必要であると思う。とにかく英語の学習マラソンコースを走り続けている内に、分かる日が来るかもしれない、と考えることが大事である。

特に英語の文法や語法が、腑に落ちないときは、焦っては駄目である。つまり、あまり深追いせずに、「取り敢えず、これはこう言うことか」と流しておくことも必要である。場合によっては、丸暗記でそのまま「丸飲み」しても構わない。英文法に関しては、新鮮な疑問を長期間保ち続けながら、少しずつ異質な英語を取り込んでいく努力が必要だと思う。一度ですべての疑問が解消すると思わない方が安全なのである。英語を本格的に読んだり、書いたりするときが来て、はじめて納得できる語法や文法事項もあるのだから。私の場合、そうであった。

一例を挙げよう。

私は、過去おびただしい数の英語の契約書を日本語へ翻訳してきた。その中で、助動詞として知られる ‘shall’ と ‘may’ のニュアンスと使い方がしっかり身に付いたような気がする。また、大学時代の講義でたまに出くわした、堅苦しい表現(hereby, therefore, thereafter, whereby, hitherto, notwithstanding など)も英語の契約書を通して、その使い方や意味が本格的に体得できたような気がする。これらの単語は、英和辞典だけ意味だけ分かっていても、使えるようにならなかったと思う。

初対面の人のすべてが一度に理解できないのと同じように、日本語が母国語の人にとっては、英語の正体も長年付き合ってみないと分からないものなのだ。DNAが違うのだから当然である。英語の新しい語彙、語法、文法現象、表現に出会ったら、まとまった期間追跡しながら、観察することが大事である。だから、英語の学習者は、せっかちな性格でない方が良いと思う。これは、声を大にして言えないが、初級および中級学習者では、英語に対して完璧主義者でない方が良いと思う。

個人差もあるだろうが、通常は、自分で表現したいことが英語である程度まで話せたり、書けたりするようになるまで、数え切れないほど失敗を繰り返しているはずである。私もそうであった。英語の文法や語法で挫折する度に、「英語って面倒くさい言語だ。何で日本語の発想やロジックと同じでないのだろう。」といじけたこともあるし、「英語には『西高東低』のようなコンパクトな表現がない。駄目な言語だ!。」と勝手に得意がっていたこともあった。

私の場合、今でも、英語に対する異質な感覚は完全に消えたわけではないが、かなり違和感は低くなってきているような気がする。大学生の頃から、20年に以上も英語と付き合ってきているせいかもしれない。8年間のイギリス留学で、英語という言語のDNAを構成する要素となる、イギリスの文化や社会、歴史や政治、風土、食文化、ユーモア、人種などを身をもって経験することで、私なりに英語という言語が持っている臭いというか、感覚が身に付いてきたのかもしれない。

外国語である英語をマスターすることで得られるメリットはたくさんあるだろうが、私が特にお奨めするメリットの3つは、以下に要約できる:

(1)「じっくりかつ粘り強く、物事を極めていく方法を体得できたこと」

(2)「固定観念に縛られず、すべての現象を柔軟に解釈しようとする精神構造が身に付いたこと」

(3)「グローバル規模で物事を捉えることができる、複眼的な思考回路ができたこと」

この続きは、次の投稿で述べることにする。

異質なものへの適応(1)

英語と日本後では、ことばのDNAが違う。ここで言うDNAとは、ある言語に関する文法、語彙、コロケーション、 発想、発音、歴史、文化などを含むと考えても良いだろう。 日本語が母国語の人の場合、英語に対して感じる違和感や、英語に対して示す拒絶反応は、言わば自然な反応現象と言っても良い。英語と親戚関係にある言語、例えばドイツ語やオランダ語の話者が、英語をマスターする際にさほど拒絶反応を示さない。これは至極当然のことである。

なぜなら、両者の言語が言語学的に見て非常に多くの点で似た部分を持つからである。もっと詳しく言うと、欧州で話されているほとんどの言語(インドヨーロッパ語族という言う)は、祖語が1つであることが分かっている。つまり、これらの言語は、長い時間を掛けて現在の言語に落ち着いてきた歴史を持つのだ。

話が横に逸れた。最近よく考えることが1つある。英語の取得を単に語学をモノにする修行と捉えるのではなく、自分が異質 なものに対してどの程度耐性があるかを測るバロメーターとしてみてはいかがであろうか。英語の発音が難しい、文法が難解だ、文の構造が分かりにくいなど、日本人の英語学習が良く口にする苦情である。ここに、同質なものでグループを作ることが好きな大部分の日本人が持っている、異質な物(人、物、言語、文化など)に対する適応力の弱さが露呈しているとは、言えないだろうか。

英語をある程度マスターした私から言わせて貰えば、「言語学的に異質な英語が、日本語に対する直感を適用して、簡単にマスターできるはずがない」と思うのである。日本語の発想で「山火事」を英語で ‘mountain fire’ と言っても、残念ながら英語ではこう表現しない。英語では、山に生えている樹木が燃えている部分に注目するので、’forest fire’ というのだ。

ここで、「英語ってなんて面倒なんだ。mountain fire でいいじゃないか。」 といくら抗議してもあまり意味はない。言語によって、同じ現象を目にしていても、切り取り方や注目の仕方が違うという点に好奇心を持って食らいついていける人が、外国語をマスターできるような気がする。

日本語から見ると異質な言語である英語の学習において、日本語という母国語の常識が英語に通用する部分と通用しない部分をふるいに掛けていく作業がどうしても必要になると思う。これは、一長一短では達成不可能である。一度にたくさんやっても学習した内容を吸収できない面もあるからだ。気長にやっていくしかないのである。私の仮説であるが、性格がせっかちな人は、ちょっと英語をかじっただけで、学習効果が出ないと、簡単にギブアップしてしまうような気がする。もったいない!

これは、私の仮説だが、英語のレベルが初級から中級のうちは、とかく英語に対する違和感や異質感について、むきになってしまう人が多いような気がする。実は、学生時代の私もそうであった。日本語を使いこなすのと同じ感覚で英語の一部を操ろうとすると、先生にミスを指摘されたり、笑われたりすることも影響しているのかもしれない。この時期、「英語の発想やロジックで考えなさい」と言われても、’It is easier than said done.’ (実行するのは、言うほど簡単ではない)ことを痛感するであろう。

英語と日本後では、ことばのdnaが違う。dnaとは、文法、語
彙、コロケーション、 発想、発音、歴史を含む。 日本語が
母国語の人の場合、英語に対する拒絶反応は、言わば自然な現象と言え
る。

英語の取得を単に語学をモノにする修行と捉えるのではなく、自分が異質
なものに対してどの程度耐性があるかを測るバロメーターとしてみるので
ある。